阿智村園原にあるヒノキの名木であり、源氏物語第二帖「帚木」もこの木に由来する。
草帚(コキア)の形をした巨木が、遠くからはよく見えるけれど、
近づくとどこにあるのか分からなくなるという「不思議な木」とされ、
人の心のうつろい、迷い、不確かなものの例えとして多くの都人の歌に詠まれている。
奈良時代の初めに、全ての国ごとに産物地味地名由来などをまとめる「風土記』が編纂された。
信濃国風土記は現在残っていないが、平安時代末にはあったようで、
それを見た記録が次のようにある。(『袖中抄』 顕昭)
「昔、信濃国風土記という本を見たところ、
園原伏屋の里にははき木という木が あった。
遠くから見れば帚を立てたように見えているが、
近よって見るとどこ にあるのか分からない。
と例えられた。」
園原や伏屋に生ふる帚木のありとてゆけど逢わぬ君かな平定文家歌合
905年に詠まれた坂上是則の歌で、帚木を詠んだ最初の歌
園原や伏屋におふる帚木のありとは見えて逢わぬ君かな新古今和歌集
鎌倉初期1216年成立の勅撰集に収録される
源氏物語第二帖。 光源氏の若き日における空蝉との出会いと別れが語られる巻。
空蝉は紫式部の自画像に最も近いとされるヒロインで、
物語は光源氏との身分違いの恋に悩んだ空蝉が、再度の逢瀬は拒否して閉じられる。
なびきやすいようでいて、いざ近づくとすり抜けるように去って行く空蝉、
光源氏は彼女をこの不思議な帚木になぞらえて、 恋路に惑う切ない胸中を訴えた。
一方空蝉も光源氏の愛を受け入れられない自らの悲しい定めを、帚木と重ね合わせた。
日本古典文学の最高峰とされる。
1008年頃紫式部によって書かれた、54帖に及ぶ長編物語。
理想的な貴公子である、主人公光源氏の生涯とその時代が、
様々な女君達との運命的な恋の遍歴を通して描かれている。
帚木の心をしらで園原の道にあやなく惑いぬるかな光源氏
数ならぬ伏屋に生ふる名の憂さにあるにもあらず消ゆる帚木空蝉
ゆかばこそ逢わずもあらめ帚木のありとばかりは音ずれよかし馬内侍
監修:林茂伸